昭和54年3月18日 月次祭
中村良一
今日は、久留米の教会で、布教推進委員会という会がございました。ここからも、信徒会長はじめ、総代さん方が、若先生も含めて、五名か六名かで参られました。夕方、帰ってみえて、まぁどういうようなお話があったかという事を、まぁ聞かせて頂きました。もう、四年後に控えております、百年祭を目指して、まぁ教団全体が、躍起となっておる模様が、お話の中から感じられるんですけれども、百年祭を目指して、人を助けるということの運動を促進していきたいというお話だったそうでございます。そして、その後に、まぁ班別懇談と言うでしょうか、そういう懇談がありましたところで、現在、銘々のおかげを受けておられるお教会で、どういう状態で、人が助かっておるかという事が話題になり、中心になったところが、半分に信者が減っておるというところが多かったそうです。信者が増えておるという事は、一軒もなかった。私は、不思議で不思議でたまらないのは、教会は、沢山増えておるのに、御道の信心の信者は、段々減っておるという事は、私は、それを聞いてから、改めて、なるほど、幾ら教会が増えても、先生が多くなっても、教会の、言うならば、信者信奉者が、半分に減っていくという様な状態では、なるほどこれは、推進が推進にもなりませんし、助かるところか、反対になっていっておるんだ。
昨日でしたか、佐田先生が、なんか、教師会の時に、話を聞いたそうですけれども、まぁ教団で、色々な、ああいう大きな、全国的に公開講演なんかを致します。それで、とにかく、教外者を中心にしてと言うので、ご信者さん方が、銘々、隣近所を誘うて、信心の頂いてない人達を誘うて、まぁお話を聞きに参りました。また、その話も、まぁ例えば、魅力のある、素人でも分かるお話の上手な先生方が選ばれております。ここでも、何時か、久留米の石橋文化ホールでしたかね。あの中山亀太郎先生が見えてからありましたから、沢山参りました。その時の事の話があったんだそうですけれども。確かにその、盛況であったと。それで、なるほど、金光様の信心も有難いなと言うので、その、まぁ近所の教会を訪ねたという人達もあったらしいけれども。参ってみて、がっかりして止めたというのであって、効果は一つもなかった。いや、効果どころか、反対にマイナスだったという話があったそうです。ね。宣伝をした、行ってみた。ところが、商品はなかった、いわば、それは、例え、粗末な商品であったという様な事では、かえって、こんなにも金光教は力が無いんだということを宣伝するようなものだと。そこで、ほんなら、今日のその、久留米の会でです。どういう風なところに、その焦点を置いて、人が助かることの手立てにするかと。
先日の、御道の、本部から来ます教報には、とにかく、伝播布教がもちっと要る。文章布教をもちっとせねばいけない。今日は、とにかく、教会の前に、高い、例えば、宣伝塔の様なものを立てたり。または、掲示板を置いたり、と言う様な事を、何所でも一つ、徹底されたらどうだろうかと言うお話が、中心だったそうです。ですから、ほんなら掲示板なら掲示板を見て、ほんなら、ちょっとほんなら、参って見ろうかと言うて参ってみたら、例えば、先生はおんなさらじゃったと。
この頃から、西山先生が、大阪の子供さんの所へ、しばらく行っておられました。それで、まぁ近所の教会に、こうお尋ねされたところが、先生がおんなさらじゃった。出てきなさったけれども、あのこう、妙な洋服ども着た人が出てきなさった。お話を頂こうと思うたけれども、何のお話もなかったと。と言った様な、やはり教会が、段々多くなってきたからじゃないだろうかと。ね。そして、いうなら看板を上げろ、掲示板を立てろ、伝播布教だ、やれ、文書布教だと言うてもです。どんなに素晴らしい事を言うても、そこに、言うならば、宣伝通りの商品がないならば、かえっていけない。なるほど、ああいう沢山なお金を賭けて、公開講演なんかをしたけれども、かえってマイナスであっただろうという様なことではいけない。そこで私は思うんですけれどもね。人が助かるという事は、どういうことだろう。百年祭を目指して、今、合楽では、百五十名、二百名余り、月々、お届けが増えております。月次祭の日一日のお届けが。ね。勿論、一日のお届けなどは、いわゆる、日まさり、月まさりに、まぁ合楽はおかげを頂いておる。結局、どういう事かと言うと、やっぱ人が助かるからですよね。
今日も、岡山、広島、大分、大分ももう、宮崎うちの県境から参ってきた、先月参ってきて、おかげを頂いた人が、また新たな人を導いて、昨日から参ってきておりました。それから、福山からも、今日は一連れ参ってきました。勿論、ここら辺りの佐賀熊本からもみんな参ってくる。ね。それが、参ってくるところの次には、また、言うならば、新しい人をお導きしてくる。それはどういう事でしょうか。やっぱ、助かるからなんです。ね。それで、お互いが、先ず、助からなければならない。そして、助けていかなければならない。
今日は、吉井のほうから、熱心に参ってくる、高良というお婆ちゃんがおります。もう八十、とても、そげんとが、おかげ頂かれるもんかいと、例えば、普通では思うのです。もう何ち言うですか、あのビニールハウスで作っておる。もうそれも沢山な事です。そのトマトが作ってある。それがもう、枯死しようとしておる。それで息子が、どうでん、婆ちゃん、合楽の金光様にお願いしてくれというから、御神酒を頂いてから帰った。ね。やっぱ、駄目のごたると言いよったけれど、今日参ってきて言われるのに、おかげを頂いて、出荷が出来るほどしに、もう見違えるようになったという事でございました。ね。そのお婆ちゃんが、今日、涙ながらにお届けをするのに。もう昨日は、親先生、広大なおかげを頂きました。昨日は、私共の部落で、老人の温泉行きがございました。私は、どうしたことか、人よりも一足送れて入らせていただきましたら、一人の、やっぱり、八十幾つになる、男か女か聞かなかったけれども、まぁは入っておられた。それで、上がって、もう上がろうとしておる時に、後ろから、ドーンち、大きな音がしたから、びっくりして見たところが、そのお年寄りが、湯船の中に、真っ逆さまに落ち込んでおられた。落ち込んでおられるというよりも、あの、倒れられた訳でしょうね。湯当たりのごと。それでもう私は、びっくりして、風呂の中に、その大きな身体ですから、頭だけば、こうやって上げちから、助けてくれ、助けてくれと言うてから、皆が見えて、おかげを頂いた。もうその助かりの具合というものが、私がもう、ちょっと引っ込んどったら、もうあのまま、あちらは、もう終えとったじゃろうと。みんなもそう言われる。お医者も来てから、本当あんた、腑が良かったと言われる。もうその事を思いましたら、夕べはもう、有り難うして、有り難うして、眠れませんでしたというお届けがございました。人を助けるという事は、そんなにも有難いことである。ね。牛やら馬が、自分の子供が溺れておっても助けることが出来ん。人間は、それを見ると、助けてやることが出来る。有難いことではないか。人が人を助けられるという事が、有難いと心得て信心せよと仰る。有難いと心得て信心せよ。そういう心掛けがいるんです。為には、先ず、自分自身が助からなければいけんのです。ね。
先ほど、桜井先生の、今日は、ちょうど、一年振りだそうですが、前講を聞かせて頂いて、あちらへ下がってから、まぁ先生に言うたことでした。今日のお話は、本当に素晴らしかった。本当に、合楽理念を、いよいよ、身をもって行じられておられなければ、あれだけのお話しは出来ないお話でした。本当に行ずるということ。いわゆる、実験するという事。そして実証していくという事は、あの様にも素晴らしいことですねと言うて、先生と話したことでした。いいえ出来ません、出来ません。けれども、取り組んでおられるという事なんです。ね。
今日も、ご夫婦で、昼、お参りして見えて、奥さんが、それこそ、あの分厚いお初穂を奉られて、日頃、見たことのない、聞いた事のないようなお名前でした。昨日、町に買い物に出ましたら、何かその、お茶屋さんの前で、なんか知らんけれども、お茶屋さんに寄りたかった。それで、寄らせて頂いて、その買わんちいう訳にいかんから、どうせお茶が要るから、今日、買わせて頂こうと思うて、お茶を注文して、包装して頂きよる間にでしょう。何の話からか、信心話になった。勿論、お話をすることは合楽のお話。そしたら、そこには、大変難儀な病人さんが居られた。もう本当に、裏に引っ込んで、一時、ごそごそしよりなはったが、そのまぁ裏で話し合いをなさったんでしょう。それこそ、あのお初穂を持ってきて、どうでも、これをお供えしてお願いをしてください。そして、出来たら、是非私を一遍、そのお教会につれて参って下さいと言うお届けがございました。ね。助けると言うことのなかにもね、あの、そういう御用に使うて頂かなければならないという事が分かりますですね。
例えば、今日のその、お風呂の中で、お年寄りが、高良さんのおかげで助かられた。神様がです、そこに間髪を入れず、もう一分早かったら、自分なもう、向こうのほうへ行っといて分からなかっただろう。もう、その辺の具合というものが、もうそれこそ、高良さんも、自分が居らんなら、この方は、もう亡くなっておられただろうと。まぁ、電話を架けたから、直ぐ自動車で、息子さんが迎えに見えたそうですが、もうそれこそ、もう大変喜んでお礼を言われた。ね。そして、自分が、もう、それこそ、八十四歳か五歳になられますけれども、大変お強い方です。もう八十幾つにもなるけれども、人を助けたという事は、初めてだった。とにかく、夕べはもう、有り難うして眠れませんでしたと言うておられるです。ね。だからやっぱり、神様に使われな、人間はそれを見ると助けることが出来る。けれども、見ることが出来なかったら、助けることも出来ない。ね。神様が、やはり、今日は、桜井先生の奥さんを使うて、ね。そのお茶屋さんの難儀なご病人さんを助けようとする働きが、そこにもう始まっておるという様なものを感じます。ね。
桜井先生のお話を聞きながら、私は本当に思わせて頂いたんですけれども。私は、御道の信心をさせて頂いたらね。もういよいよ、皆さん、目先目先のおかげじゃいかんですばい。もうどうでもね、十年先を楽しむ、二十年先を楽しむ、ね。しかもそれは絶対の道。ね。それこそ、もう夢にも思わなかったというおかげの展開が起こってくるようなおかげでなからなければ、あの世までは持っていかれんです。私は、桜井先生がこの、合楽におられる時分、ちょうど椛目の時代におかげを頂いて、十三年になると言うて、今日ここで、お話をしておられましたですね。その十三年間の間の、先生方のご苦労と言うものは、もうそれこそ、傍目も見られんような修行でした。特にここに、合楽に移って見えてから、大変それがひどかった。ね。そして、福岡の方にお出でられて、今日の桜井先生一家でございますけれども、まぁ合楽で、今度御造営がありますね。建設がありますが、御造営の御用に立っておる人を、十人選り抜かなければならんと言うならば、その十人の中に入られるほどしのおかげを頂いておられるです。まぁようもう本当に出来られるなぁと、私も感心するくらいです。ね。勿論、有り余ってすることじゃございませんから、身を削り、心を削りしてからの事でございますけれどもです。それこそ、十年前のことを思うたら、夢にも思わなかったような御用が出来ておられる。しかも毎日、福岡から日参してこられるです。ね。もう本当に、夢にも思わなかったようなおかげの、言うならば、始まりをね、感ずるんです。先生が言っておられるように、本当に合楽理念を、いわば、地で行じて行き、行うていくならば、必ずやおかげを頂くことだろう。
私は、ね。とにかく、大きくなる事よりも、こまくなる方の名人です。ね。私は、心を明るくする事よりも、心を暗くする方の名人ですという言葉を使っておられましたが、お互いがそうじゃないでしょうか。もう、ちょいと、どうかすると、もう暗くなる。ちょいとどうかすると、もう心がいらいらする。名人じゃ、ね。ところが、合楽理念が、ここで言われる様になり、合楽理念を元にしてするところに、ほんなら、ここは合楽理念でならば、どう頂くべきかという思いを致しますと、直ぐそこに答えが出てくる。そこから、元気が湧いてくる。ね。そこから、言うなら、実験に移らせて貰う。実験に移らせて頂くと、必ずそこに、実証が現れるという話をなさっておられましたですね。お互いも、先ずはね、いうならば、大きくよりも、こまくなる名人であり、明るくよりも、ね。暗くなる名人であるという、その自覚が出来にゃいけません。何かちょいと、何かその、嬉しい事があると、もう、こうその、嬉しがるけれどもね。私は、真に有難いというのは、それと反対の時に、有難いと思えるような信心を頂かなければいけないと思う。
今日も、研修の時に、皆さんと研修し合った事でございますけれども。いうならば、神様の御用を、こうやってさせて頂いた。どうぞ、神様、御用に使うてくださいと。人が助かることの御用に使うてください。人が助かるという事は、神様がお喜びになること、神様が、ままになられることである。言うならば、神様がままになられる事のための、お給仕をするようなもんである。そのお給仕をする人が、ね。ほりゃもう詰めとる、ここの間に、黒か垢んごたっとの、こうやって付いとる。ね。はぁ妙な、垢の付いたごたる着物着とる。そして、どうぞもう一杯召し上がりませと言うてもです。もうそれこそ、神様が、むーっとしなさる。ね。それこそ、小ざっぱりとした格好してです、ね。綺麗な手を差し出して、どうぞもう一杯いかがでしょうかと言うたら、それこそ、ね。それに神様は釣られてから、やっぱりお食事が進みなさる。神様のお食事が、お進みになるというのは、それだけ神様が、沢山ままになりなさるという事なんです。
私はこの頃、夕食が、一杯しか頂かんです。ところが、今日私、三杯半頂いた。それがその、こりゃ、相手が良かったけんじゃろうと、私が言うた事でした。今日はその、久留米から帰ってきた連中が、一緒にお食事をしたんです。それから、一時ばかり、毎晩、あんた段、御用ばさせて貰うたらどうかと言うて、まぁ笑い話したことでいたけれどもね。不思議なもんですね、雰囲気が良いと、もうあの、ご飯が美味しい。ね。もう色々有難か話しよると、どがしこ食べたか分からんごとして、も一杯ち言いよる。ね。もう久富先生、あんたが相手じゃ、こりゃご飯がいけん。はっははは、(笑い)ね。どうでもやはり、信心させて頂くでもですね。そういう、やはり、雰囲気作りが大事です。ね。信心に連れはいらぬと言われるけれども、やはり、信心にも、有難い連れが要ります。ね。
先日、福岡の伊藤さんが、お電話でした。殆んど毎日参って見えますが、しかし、まぁ徹底した頂き方をされるなぁと思うて。先生、私が、今から申しますこと、こりゃ本当か、本当でないかお聞きくださいとこう言うのである。昨日、川上さんに、一時間二十分信心問答をしとったち、電話で。熱心な人ばっかりですからね。今度先生が、韓国行きをなさるという事が中止になられた。ね。そしたら、伊藤さんが言われるのに、それは中止になるが本当でしょうち言わっしゃったち。どうしてですかち。私はもう、親先生から、ちゃんと、韓国のお土産をいただいとりますもんち。だから、先生はもう、行ってお出でられとりますよと言わっしゃったち。さぁ川上さんも、あれだけ熱心で、あれだけ詳しいお方だけれども、そげなこつは伊藤さん、ねーごつか分からんと言われますけれども。私は、親先生を、言うならば、親神様だと思うております。その親神様から、先日、あるお友達が韓国旅行された。そして、お土産に、韓国のお土産を色々持ってこられた。そん時に、その人から頂いたのではない、これは神様から頂いたと思うた。親神様から頂いたと思うた。そこに、親先生が、韓国行きが中止になられたと聞いた時に、そら、止めなさる筈じゃろう、もう先生はお出でになさる筈はない。いわゆる、親神様からお土産を私が頂いておるからと、私は申しましたが、私のいう事が違うでしょうかと言われるのです。いやぁ、そら、あなたが言うとがほんなこつばい。皆さん、お分かりになるですか。ね。信ずると言うたら、やっぱり、そこまで信じなければいけないです。ね。私が親先生から、お土産を頂いたけん、また二遍と、その行きなはる必要はないとこう言うのである。ね。信ずるという事には、もう限りがありません。ね。
今朝の御理解でしたか、昨日の朝の御祈念の後に、日田から、今、あっちは、永田さんち言うかね。と言う、大変大きな金貸しをなさっておられます。元、高校の、今の高校ですね。中学校の先生をしておられるというほどしの人です。非常に宗教が好きで、もう仏教、特に、親鸞の信心なんかは、もう非常に詳しい。日田の共励会なんかにも見えるそうですけれども、もう、御道の信心の人達の話なんかは、もう程度が低いという頂き方しかされん。私はもう、親鸞の教えを頂いておるからと、こう言われる様な方が、ある、まぁどうでもという問題が起こりましたから、やっぱ、親鸞聖人様じゃ、いかんじゃったでしょうたいね。それで金光様という事になって、今、毎日、日参をなさいます、綾部さんとご一緒に。ね。それで、そういう、なかなか頭の良い方ですから、分かりも早い。昨日、ここへ見えてから、あの先生、最近ここにお参りをすると、合楽理念、合楽理念ということを説かれますけれども。ぎりぎり決着、合楽理念とは、一切が神愛と分かることですかと言わっしゃったです。私は、それを聞いてから、びっくりしました。合楽理念とは、ね。一切が神愛と分かることです。私も、一切が神愛とは言いよるけれども、その一切が神愛と分かることが、合楽理念だとは、まぁだ言うた事がなかった。中田さん、そうですばいち。もうとにかく、一切が神愛と分からせて頂くことが、ね。いわば、合楽理念ですと。だから、その一切が神愛というならば、心から感じられる。一切が神愛と分かったら、お礼が言えれるという事が合楽理念です。・ね。そこでその、それを神愛と分からせていただくための手立てが、いろいろな角度から説かれる訳なんです。一切が神愛であると分からせていただくことの為に、いよいよ以って、土の信心。黙って治めるという、ね。この土の信心に極まったというくらいに、その土の信心を極めてまいりますと、なるほど、言うなら、その実験をするから実証。はぁあれは困ったことだ、難儀なことだ、腹の立ったことだと思っておった事が、みんなおかげであったなぁ、あれもおかげであった、これもおかげであったと分かるようになる。ね。それを、繰り返し繰り返し、年季を入れて行っておりますうちにです。もう、どういう事が起こっても、おかげと、言うならば、神愛の現われとして、それを合掌して受けることが出来る。ははぁ、こらまぁ合楽理念とは、ね。一切を神愛と分かることを教えてあるのですよ。その一切が神愛であるということを、ね。実感として分からせて貰う。お礼の言えれるところで高めていくことの為に、土の信心に極まったと、合楽理念では説くのですよという事になるですよね。こうなったら、どんなに楽だろうかと思うです。
今日、ちょうど、四時の御祈念にかかる前でしたか。これももう、お爺さんですけれども、中野さんという方が参ってきた。それであの、塗板を見て、もう今書き直してあるでしょうけれども、昨日の塗板の掲示を見てから、日々がその、神様がご演出になるところのドラマだと言うのですが、あれは先生、どういう意味でしょうかと言われる訳です。皆さんは、塗板をご覧になりよるでしょうか。ね。または、控えて帰ってお出でるでしょうか。あれは、毎日毎日の、沢山の先生方が纏めたとの中から、まぁ一番、塗板に掲示するのに良いというのが、あそこへ掲げられるのです。ですから、あれを見ると、朝の御祈念にお参りが出来なくっても、大体の事が分かる訳です。ね。それで、私は、今朝からの御理解を、そのお爺さんに話したことでした。ここの合楽の久保山さんという方が、ね。昨日は、合楽会でしたけれども、今日は、あちらは、ご祝儀やら、人が亡くなられたりやら、お悔やみやらで、合楽会には出られないという事ですと言うことだったから。見えないと思ったら、遅う、もう十時ごろから出て見えられた。ね。そしてその、一日のお話を聞かせて頂くとです。それこそ、お喜びがあり、嬉しいことであり、また、悲しい、お悔やみに行かねばならないような事の、その具合というものが、悲しいけれども有難い。喜ばしいことは、もう、いよいよもって、万事万端のお都合お繰り合わせを頂いて、今日の運びになったと言うおかげを頂いて、そのお悔やみから帰って、はぁまぁだ、済んどらんだろうと言うて、あの合楽会に参加させて頂いたと言うお話をなさった。そして、今日、もう一日、それこそ、ね。嬉しいこと、悲しいこと、ひっくるめて、結論としては、今日も結構なおかげを頂いて、有難いという、お礼のお届けをなさったが。日々、そういうこと。自分の嬉しいこと、悲しいこと、様々がです、ね。神様が、その時、その時に、言うならば、演出してくださるドラマである。ね。だから、そのドラマの中の私は、どういう役を承るかというところに、私共は、日々、精進させてもらうのである。そして、結論としては、きつかっても、苦しかっても、本当に、結構な修行させて頂いて有り難かったという事になる時に、初めて、一切が神愛という事になって、生き生きとしてくる、いわゆる、生き生きとした一日という事になるのじゃないでしょうか。ね。
そういう日々を、言うならば、繰り返させて貰うて、一切が神愛と悟らせて頂けれる、そういう助かりというものを、自分が頂いて、ね、神様へ、どうぞ今日も、合楽示現活動参画に、ね。参画させて下さいと言う願いを持たせて貰う。いかに金光様の先生であっても、どうぞ、人の助かる御用に使うてくださいと言うても、ね。それこそ、神様が向こう向きなさるような心の状態では、人は助けられない。助けたいと思うても、助けてくださるのは神様なのだからという事になるのです。ね。
いよいよ、御霊様のお祭りが近付いてまいりましたから、もう御霊様達が、こう動き出されたものが、毎日毎日感じられます。今日も、先ほど、福岡のご信者がお届けしておられました様に、もうそれこそ、自分の身寄りの、もう知らないような人達までもが、自分の周辺に集まって、助けを求めておられると言うのです。ね。いよいよ、御霊様のお喜び頂けれる霊祭を奉仕したいと、私は思うておりますから、ね。皆さんも、やはり、そういう有難い、皆さんの身辺のたくさんの御霊様達が、言うなら助かりたい。だから、それをお助けする手立てというものを、やっぱり、祈り願っていかなければなりません。ね。それには、やはり、御霊のお祭りも、御霊が助かるということも、やはり、合楽理念によってする他は無しという事に気付かなければいけないという事でございます。ただ、御霊様が喜びなさりすれば良い。なるほど、そうですけれども。日頃、私共が頂いて居る信心を、ね。その御霊祭りに現すという事なんです。ね。御霊様のお祭りになったから、団子ばお供えした、お酒ばお供えした。それで、御霊様が喜んでくださるというだけではなくてです。日頃、信心の稽古をさせて頂いておる私達が、ね。その信心をです、もって、御霊様の助かり、また御霊様の喜びが頂けるようなお祭りをさせて頂きたいという事になります。ね。それを、御霊のお祭りも、合楽理念をもってする他なしという事になるのです。ね。商売は、合楽理念をもってする他はない。百姓は、合楽理念をもってする他はなし。いや、御霊祭りは、合楽理念をもってする他はなし。
これも、私は、二三日前、ここの千恵子先生の連れ合いが亡くなられて十年でしたから、式年祭を奉仕させてもらった時に、初めて頂いたことでした。ね。それは、もう御霊様が喜んでくださるという事は勿論ですから、一生懸命の思いを込めて、親子の者が、その御霊のお祭りに、思いを集中してのお祭りであった。けれども、千恵子先生の心の中にあるものは、どういう事かと言うと、日ごろ頂いておる信心を、いよいよ、この御霊祭りに現すと言うところにあった。その日の御直会が、シナ料理で、あちらから、中国の方が見えて、その、ここで、お料理を作ってくださるという。お祭りの直ぐ前に、家内にあの、一皿でも良いから、シナ料理の熱いところを作って、御霊様にお供えするように言うておけと言うて申しましたから、直ぐ、こちらのほうへ参りました。で、そう申しましたら、千恵子先生が言うこと、いいえ、もう今日は、もう親先生が中心ですからとこう言うた。私は、それを家内から聞かせて頂いて、そげなこつ言うちから、お供えすりゃ良かところえと言いながら、私は、お祭りをさせて頂いたんですけれども、ね。合楽理念をもってする他はない、御霊祭りも、合楽理念をもってする他はないという事は、御霊の喜びということ、御霊の助かりという事は、勿論の事だけれども、日頃頂いておる信心を、その御霊祭りに現す、ほんなら、千恵子先生としては、親先生が喜んでくださる様な御霊祭りという、その一念が、合楽理念をもってする他はないのだ、御霊祭りも、やっぱりそうだということになったんです。ね。
ただ、御霊様だけが喜んで下さるという事はことはあり得ないのですけれども、どうも、私共は、そういう偏ったものがあります。だから、私共、ここまで、合楽理念をと申しておるのでございますから、御霊祭りも、やはり、合楽理念をもってするというおかげを頂かせて貰うて、御霊との、ね。えー、喜びの交流を願いたいと思います。二十三日、一時からのお祭りですから、どうぞ、そういう意味合いでの、いわゆる、今度の春の御霊祭りは、ね。合楽理念をもって奉仕させて頂きたいと思います。ね。御霊が助かるということです。それには、私共が、合楽理念を行じて、私共自体が助かっておかなければならない。助かるということは、ね、助けるという事は、先ずは、私自身が助かっておらなければならない。そして、私が、日頃の願い、どうぞ、合楽示現活動に参画してくださいという願い、祈りがです、今日の桜井先生の奥さんの上に現れたような働きになって現れてくるんです。そういう働きが現れてくるころには、もう、桜井一家の上にです、もうそれこそ、ね、今、夢にも思わなかった、十年前から、今日のことを思うたら、本当に、夢にも思わないようなことが、今、おかげ頂いておるなと、ご夫婦でお話されておられるだろうと思うんです。これは、もっともっと、いうなら、そのおかげは、ね、広がりに広がっていくことでしょう。ね。合楽理念をもってしなければ、例えば、今日の桜井先生のお話は出来ない。また、自分が行じておらなければ、あぁいう発言は出来ないと、私は思わせて頂いたが、ね。言うこと、することがです、合楽理念をもってしておりますと、そういう人が助かるという様な事の手がかりになってくるのですから、ね。夢おろそかには出来ないというのでございます。どうぞ。